労働市場での所得格差

 価格機構が資源配分をパレートの意味で最適な状態、効率的な状態にすることはわかったが、いま問題になっている所得の格差についてはどのような説明が可能なのだろうか。ミクロ経済学の考え方にたつと、家計部門の所得は労働市場で成立する賃金によって決まるので、表記の問題は具体的には「賃金格差がなぜ生じるか」という形をとる。

 この問いに対して新古典派理論の枠組みにたって解答しようとするかぎり、所得分配の差異は需要側の要因か、あるいは供給側の要因、市場の要因の3つの中のいずれか1つで説明されるはずである。新古典派経済学においては労働市場における労働力の取引も他の財・サービスの取引とまったく同じように考えることができるからだ。(ただし、労働力の供給は家計、需要は企業であるので、先程とは話の順序は逆になる。)

 労働需要、すなわち企業の意志決定によって賃金格差を説明しようとするものは限界生産力説と呼ばれる。この理論では、労働者の仕事能力の差が賃金の差を生むと考える。より効率的に働く者はより高い賃金を受け取るというのである。

 この理論は「なぜ世の中に教育ママが多いか」ということを説明する。学歴が高いほど効率よく仕事をする能力が身につくから、得る賃金も低学歴者に比べて高学歴者が高くなる。将来の所得を高くしようと思えば、親は子供に高い学歴をつけさせようとするのも合理的なことになる。もっとも、多くの教育ママの実際を見ると、所得を高めるために学歴をつけさせようというよりは、隣の家の子供と比較して名声のある学校に入学させたいというような非経済的な理由で行動していると考えたほうが自然な気もする。それでも高学歴=高所得ということが教育熱を高めていることは否定できない。経済学においても、限界生産力説によって賃金が決まるということと、教育によって労働者の限界生産力が高まるということを仮定して、教育の問題を考えるこころみがある。教育投資の理論と呼ばれている。

 一方、労働供給、すなわち労働者の行動から説明を試みるのが均等化差異の原理と呼ばれるものである。誰でも賛成するように、同じ時間を働くにしても、自分でやりたいと思っている仕事ならば喜んでするけれども、やりたくないことはどんなに賃金をもらってもやりたくないということがある。仕事に対する好みである。たで喰う虫も好き好きというように、人々の好みは千差万別であるから、賃金格差もこの好みの差で説明できるというのである。いまの日本を見ても、いわゆる3Kと呼ばれる職種はみながいやがるために、多少賃金を高くしたとしてもなかなか人手が集まらないという。賃金を高くすれば人手が集まるというわけではないのだ。人々が率先してやりたいと思う仕事には高い賃金がつき、いやがる職種には低い賃金しかつかないというのが均等化差異の原理の主張である。

限界生産力説

 労働供給量は決められているとして、需要要因だけからどのように所得分配が決められるかについて明らかにしよう。企業はどのような原理に従って労働需要を決定するのであろうか。

 この問題に対して新古典派経済学では限界生産力説による説明をする。企業にとって見れば労働者を雇うのは、彼らの労働力を利用することによって財・サービスを生産するためである。この生産活動は利潤をできるだけ大きくするためにおこなわれるというのが新古典派経済学の基本仮説であるが、労働者を雇用するときにもこの原理は貫かれる。労働に限らず、原材料を含めたあらゆる生産要素の投入量の決定が利潤を最大にするように決定されるとき、限界生産力説が成立する。

 まず限界生産力という言葉の意味を説明しよう。いまジャガイモの収穫だけをする企業が、ある一人の労働者をどのくらいの時間雇うかを決めようとしているとしよう。1時間この労働者を雇うと、ジャガイモが1000個収穫できるとする。さらに1時間、合計で2時間雇うと1800個のジャガイモを収穫できるようになる。働いている時間が2倍になったのに単純に収穫高が2倍にならないのは、つかれてきたからである。だから、さらに1時間よけいにはたらいて合計で3時間はたらいたときの収穫高は2300個というような数になる。

 このとき、最初の1時間に収穫されたジャガイモは1000個、次の1時間では800個、次は700個であるが、これらのジャガイモの数がこの労働者の限界生産物である。つまり、追加的に1単位の生産要素を投入したときに得られる生産物の量が限界生産物である。

 この限界生産物が生産要素の投入量を増加させていくにつれて減少することは上の事例でみた。この事例に限らず、限界生産物はだんだんと減少すると考えるほうが現実に適合することが昔から知られており、限界生産力逓減の法則という名前でまとめられている。

 ところで、企業は生産要素を投入するためにかかる費用と収益を比較しながら生産計画をたてるが、労働の問題を考える限り、費用は賃金、収益は限界生産力と捉えることができる。そこで、利潤を最大にしようとする企業は、賃金の大きさと限界生産力との比較をしながら、できるだけ小さな費用でできるだけ大きな収益を得るように、もっとも望ましい生産要素の投入量を決めることになる。

 ところが、どんなに生産要素の投入量を増やしても、単位あたりの賃金は変わらないが、限界生産力は逓減する。つまり、上でみたジャガイモ掘りの場合、時給が1000円とすると、2時間で2000円、3時間で3000円の費用がかかることになるが、収穫は1000、800、700と逓減する。もっと連続的に投入量が調節できるとすると、投入に応じて収穫は下図のように逓減していく。(この曲線の接線の傾きの大きさが限界生産力を表すことになる)。

 費用は生産要素を投入すればするほど確実に単調に増加していくのに対して、収穫の伸びはだんだん緩やかになる。しまいに、Z点では費用と収益が一致してしまい、そこから右側では費用が収穫にくらべて一方的に増大していってしまう。

 この図をつかって、企業の利潤最大化行動を考え直してみよう。

 収益と費用との差が利潤であるから、収益曲線と費用線との差が利潤ということになる。図を見ればわかるように利潤を最大にする最適な投入量はE点であたえられる。E点では収穫の伸びを表す曲線の接戦の傾きと費用線の傾きが一致している。このことは、限界生産力が賃金に等しくなるように企業は行動するということを意味する。

 企業はつねに限界生産力と賃金が一致するように雇用量を決定しようとする。だから需要と供給を一致させるように賃金が変動した後にも、やはり限界生産力説は成立しているはずである。さまざまに異なる能力をもっている労働者がいるときには、それぞれの労働者の能力、限界生産力に応じた賃金が決まることになる。

 以上が限界生産力説の要旨である。この説は、高い賃金を得たいと思ったら、生産能力を身につけるべきだということを意味している。この点について考えるのが教育投資の理論である。

教育投資の理論

 実際の賃金が限界生産力に応じた水準に決まっているとすると、高い生産能力をもっている労働者には高い賃金が、劣った生産能力しかない労働者には低い賃金しか支払われないことになる。そこで、よりよい経済生活を営もうとする人々は、できるだけ高い生産能力を身につけようとする。

 教育を受けることには費用もかかるが、将来の所得を増大させるという収益もある。さきほどの議論と同じように収益と費用とのバランスを考えながら最適な教育量を決めると考えるのが教育投資の理論である。つまり、教育をその時かぎりの消費として理解せずに、将来の所得を得るための投資と考えて、利潤最大化をする企業と同じ形で教育の決定を考えるのである。

 大学まで進学すれば高い生産能力を得ることができるために、多くの人が大学入学のためにあくせく勉強をする。しかし、女性の多くは一生はたらくわけではなく、いわゆる腰掛けのつもりで結婚までしか仕事をしないというのが、いままでの日本の実状であったから、多くが高校、あるいは短大までしか進学しなかった。この背景では、大学まで進学してもそれだけ就業期間が短くなってしまうために、収益が費用よりも小さくなってしまうのに対して、高校、あるいは短大卒の方が大卒よりも費用が小さく、収益が大きくなるので有利だという判断がはたらいている。

 このように見ると、教育投資の理論は現実的な人間行動を説明しているように思える。途上国の貧困問題の解決のためにも教育を普及させるということが盛んに主張される。また、一国の経済発展を考えるうえでも教育の役割が重視される。たとえば、日本が急速に近代化をできたのは江戸時代から寺小屋が全国にあったために庶民のレベルにも教育がいきわたっていたからだという意見がある。最近では経済学の理論研究でも教育、ないしは人的資本(生産能力)を重視した経済発展の解明が盛んに行なわれている。

 Lam=Levison(1992) はブラジルでの教育の普及が所得格差の縮小につながったという研究をしている。そこでは教育がだんだんと普及してきたのに対応して所得格差が縮小してきていることが実証的に示されている。 )

 ルーニー(1975)ではイラン、メキシコ、ブラジル、韓国について教育投資の理論に沿った計測をし、矛盾しない結果を導いている。

 しかし、教育投資の理論それ自体を実証しようとする研究は成功していない。まず、教育を受けた年数だけ所得が高くなるという単純な形で教育投資の理論を理解し、所得(Y) を教育年数 (s) で説明しようとし、次の結果が出ている。(石川(1991)163ページ)

()内の$t$値を見ると有意な結果がでているが、決定係数は非常に低い。ここには掲載されていないが、企業規模で所得を説明したほうがよい結果がでることが知られている。大企業に勤める方が、中小企業よりも高い賃金をもらえるというのである。この現実を説明するためには企業規模によって賃金が決まることを説明する理論が作りだされなければならない。残念ながら新古典派経済学、限界生産力説ではこの点を説得的に説明するには難がある。大企業には優れた人材、学歴の高い人材が集まるのだから、賃金が高くなるのは当然であると考える学者もいるが、その考え方は教育投資の理論とは矛盾しない。しかし、次章で見る二重労働市場仮説と比較したときに、どちらが説得性をもつかみなさんの意見を聞きたいところである。

シグナリング均衡

 教育投資の理論では、中学から高校、高校から大学へと進学するにつれて高い生産能力が身につくと考えた。しかし、このような考え方には多くの異論があろう。とくに、狭い範囲の職種しか雇用しない中小企業の経営者の立場から言えば、大学卒の肩書きよりも専門能力を持っている人間の方がよいということになるだろう。そのような考え方では高校や大学に進学するよりも、中学からすぐに専門学校に通うか、就職して職場で訓練を受ける方が高い生産能力を身につけられるということになる。

 企業の人事を担当する人に聞いても大学での教育には何の期待もしていないというようなことを盛んに言う。たしかに、どう考えても大学での教育がそれ以後の社会での生産能力に直接役立つものになっているとは思えない。福沢諭吉が実学の重要性を主張したことはあまりにも有名であるが、専門学校の教育に比べていまの慶應義塾の教育が職場での実際の仕事に役立つ学問を教えているとはとうてい言えない。

 考えてみると大学院の現状はこのような考え方に影響されている。高学歴が高い仕事能力に結びつくのだとしたら、企業はもっと積極的に大学院出の学生を雇用してもいいはずだが、現状はそうではない。学生の方も就業機会を逃すことをおそれて、せっかくの人材が大学院に進学せずにいることが多い。

 ではなぜ大学教育はこれほどまでに大切なものと思われているのだろうか。仕事の能力に役立つように見えないのに大学教育がありがたられ、企業でも大学教育を馬鹿にしながら高い賃金を支払って大卒の社員を雇おうとするのはなぜなのだろうか。答えは2通りある。

 第1は、仕事に直接役立つようには見えないけれども、実際には間接的に仕事に役立つという説明である。この説明は、大学教育が幅広い一般性のある教育をするということが根拠になっている。専門学校は文字通り専門的・特殊性のある教育をするために即戦力のある人材を養成することができるが、この能力はあくまでも特殊な職種でしか通用しない。たとえば、調理師の資格をとったら調理師の仕事では有利な条件ではたらくことができるが、他の職種ではこの能力を活かすことはできない。それに対して大学で教わることは抽象性が高いために仕事にすぐには役立たないが、かえって一般性があるためにどのような職業にも対応できる柔軟さを備えている。この柔軟さが高い賃金を獲得できる根拠になるというのである。

 第2は、高学歴であることが高い能力をもっていることのシグナルになるという考え方である。大学教育自体は専門能力の向上にはつながらないかもしれないが、実際に仕事をさせてみると大学出の方が高卒よりもよい仕事をするということが過去の経験からわかっているときに、企業は大卒の人間を採用することによってよい人材を確保しようとするのである。高卒よりも大卒の人間の方がよい仕事をする確率が高いから雇用するのである。

 実際に仕事をさせてみなければその人がどのくらい仕事ができるかはわからない。また、1回かぎりの試験では、どのようにその試験が工夫されたものであっても人の仕事能力を判定することはできない。仕事の能力をじかに判定する基準がないので代理変数として学歴を見るというのである。

 以上のように学歴を一つのシグナルと捉える考え方をシグナリング均衡の理論と呼ぶ。

均等化差異の原理

 人々の間に仕事能力に差がないとしても賃金格差が生じる可能性がある。労働者はすべて仕事に対する好みが同じであるというわけではなく、好きな仕事、嫌いな仕事が人によってバラバラである。好きな仕事については賃金が低くても労働力を供給するであろうし、嫌いな仕事であったらよほど賃金を高くしないと労働力があつまらない。 人によって仕事に対する好みが異なることから、賃金がバラバラになるという説明である。限界生産力説においては、労働者にとって各時点では能力は所与であるから、後は労働需要者である企業の意思決定によって賃金が決まり、労働者はその賃金の大きさを決めるうえでは何の発言権ももたされていなかった。これに対し、仕事に対する好みで賃金格差を説明する立場は、労働者の意思決定のみが賃金格差を決める要因であると考える。労働市場における供給要因のみが賃金格差を決めるという考え方なのである。

 もちろん、もっとも過激な形でこの理論を主張するときには、仕事に対する好み以外では労働者はすべて同じ性質をもっていると仮定する。これは仕事に対する能力も、年齢、性別による差も賃金の決定には影響をもたないような世界を考えることを意味する。逆に言えば、仕事に対する好みが同一であれば同一の賃金を得るような世界が考えられているということだ。

 好みの差があるために生じた賃金格差部分のことを均等化差異と呼び、以上のような理論を均等化差異の原理と言う。

 均等化差異の原理は確かに現実の一側面をとらえてはいるが、データに照らし合わせてどれだけの説明力をもっているかをチェックすることができないという難点がある。限界生産力説の場合にもこの問題はあったが、教育投資の理論と組み合わせると、実証が容易な形になった。人々の仕事能力はそれまで受けてきた教育の量によって決まるというのが教育投資の理論である。一方、限界生産力説は仕事能力の差が賃金格差を生むという理論である。この2つを結び付ければ、受けてきた教育の量によって賃金格差が説明できることになる。実際にその一例をすでにみた。ところが、均等化差異の原理はそのような実証の可能性は低い。 

完全雇用

 所得分配の問題を考えるときに、個人間の賃金格差だけでなく、就労しているか、失業しているかの差についても注意するべきである。いままでの議論では、労働者はすべて就労しているものとして、同じ就労をしているにもかかわらず発生する賃金格差を考えてきた。しかし、そもそも就労している人としていない人とでは、賃金の額の差という同じ次元での比較ができるわけではない。失業しているということは賃金がゼロということであるから、ゼロ賃金とプラスの賃金という形での比較はできる。

 新古典派経済学は失業の存在を説明できない。正確には「非自発的失業」の存在は説明できない。マクロ経済学では総需要が不足するときに、働きたいと思っているにもかかわらず失業せざるをえない者がでてくることを説明できた。ところが、新古典派経済学の想定する経済ではそのような意味での非自発的失業はありえず、失業者がいるとしたら、その人達は自発的に失業しているということになる。

 なぜなら、経済全体の秩序が価格の調整によって守られている世界では、もし失業するのがいやだったらより低い賃金でも働く意思があることを示せばよい。企業は利潤最大化をするためにはできるだけ低い費用で労働者を雇いたいと思っているのだから、低い賃金を申し出ることによって必ず仕事にありつくことができるはずだ。失業者は現状の賃金に対して不満をもっているために就業しないのであり、それは自発的失業と認定するべきである。新古典派経済学ではこのように考えるのである。

 ここまで価格、賃金のはたらきを重視した考えがどれだけ現実性をもつか疑問が残る。

 また、新古典派経済学のモデルは数学的に非常に精緻化されているので、実際の研究をすすめるときには、バラバラの個人を考えるのではなく、同質的個人という単純化の仮定をおく。いままでの説明では所得分配の問題を考えるために、人によって仕事能力がちがうとか、仕事に対する好みがちがうという想定をした。そのちがいこそが賃金格差、所得格差を生むと言いたかったからだ。

From:http://www.econ.keio.ac.jp/staff/tets/kougi/poverty/chap3.htm


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