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シグナリング均衡

 

 

 教育投資の理論では、中学から高校、高校から大学へと進学するにつれて高い生産能力が身につくと考えた。しかし、このような考え方には多くの異論があろう。とくに、狭い範囲の職種しか雇用しない中小企業の経営者の立場から言えば、大学卒の肩書きよりも専門能力を持っている人間の方がよいということになるだろう。そのような考え方では高校や大学に進学するよりも、中学からすぐに専門学校に通うか、就職して職場で訓練を受ける方が高い生産能力を身につけられるということになる。

 

 

 企業の人事を担当する人に聞いても大学での教育には何の期待もしていないというようなことを盛んに言う。たしかに、どう考えても大学での教育がそれ以後の社会での生産能力に直接役立つものになっているとは思えない。福沢諭吉が実学の重要性を主張したことはあまりにも有名であるが、専門学校の教育に比べていまの慶應義塾の教育が職場での実際の仕事に役立つ学問を教えているとはとうてい言えない。

 

 

 考えてみると大学院の現状はこのような考え方に影響されている。高学歴が高い仕事能力に結びつくのだとしたら、企業はもっと積極的に大学院出の学生を雇用してもいいはずだが、現状はそうではない。学生の方も就業機会を逃すことをおそれて、せっかくの人材が大学院に進学せずにいることが多い。

 

 

 ではなぜ大学教育はこれほどまでに大切なものと思われているのだろうか。仕事の能力に役立つように見えないのに大学教育がありがたられ、企業でも大学教育を馬鹿にしながら高い賃金を支払って大卒の社員を雇おうとするのはなぜなのだろうか。答えは2通りある。

 

 

 第1は、仕事に直接役立つようには見えないけれども、実際には間接的に仕事に役立つという説明である。この説明は、大学教育が幅広い一般性のある教育をするということが根拠になっている。専門学校は文字通り専門的・特殊性のある教育をするために即戦力のある人材を養成することができるが、この能力はあくまでも特殊な職種でしか通用しない。たとえば、調理師の資格をとったら調理師の仕事では有利な条件ではたらくことができるが、他の職種ではこの能力を活かすことはできない。それに対して大学で教わることは抽象性が高いために仕事にすぐには役立たないが、かえって一般性があるためにどのような職業にも対応できる柔軟さを備えている。この柔軟さが高い賃金を獲得できる根拠になるというのである。

 

 

 第2は、高学歴であることが高い能力をもっていることのシグナルになるという考え方である。大学教育自体は専門能力の向上にはつながらないかもしれないが、実際に仕事をさせてみると大学出の方が高卒よりもよい仕事をするということが過去の経験からわかっているときに、企業は大卒の人間を採用することによってよい人材を確保しようとするのである。高卒よりも大卒の人間の方がよい仕事をする確率が高いから雇用するのである。

 

 

 実際に仕事をさせてみなければその人がどのくらい仕事ができるかはわからない。また、1回かぎりの試験では、どのようにその試験が工夫されたものであっても人の仕事能力を判定することはできない。仕事の能力をじかに判定する基準がないので代理変数として学歴を見るというのである。

 

 

 以上のように学歴を一つのシグナルと捉える考え方をシグナリング均衡の理論と呼ぶ。

 http://www.econ.keio.ac.jp/staff/tets/kougi/poverty/chap3.htm

 


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